旅の余白

ソードの10を思わせる光景のなか、藍色の長い外套をまとった中年の東アジア系女性が、血なまぐささのない姿で淀川の河岸にうつぶせになり、はっきり数えられる十本の剣が衣を貫いて地面に刺さっている。背後には花火を待つ人々の固まりと大阪のスカイライン、夜空に開く花火があり、遠い地平線には金色の朝の光が現れ始めている

花火大会。10月17日

一人で三時間も早く淀川の河畔へ行き、いくつもの固まりになった人波のなかで、バンコクと十年前の日本の花火大会を思い出した。花火の後、クラスメートが私を見つけ、居酒屋、クラブ、夜明け間近の帰り道が、中年の活力を少しだけ取り戻してくれた。

今日も私は厚かましくも、結局誰が花火大会に行くのか、もう一度聞いてみた。

若い女子組はいつもどおり返事をくれなかったが、(見捨てられた)男子たちは次々に答えてくれた。ただし、男子たちは早く出かけたくないらしい。

私はぶらぶらするつもりで、三時間も早く河畔へやって来た。

河畔にも露店がかなり並んでいた。とはいえ、どこも似たような店ばかりだった。

浴衣を着た女の子たちも大勢現れた。

路辺では、警察と警備の人たちも早々に配置につき始めていた。

午後は涼しい風のなかにまだ暑さが残っていたが、日が沈むと気温は急に下がった。ジャケットを羽織っても、少し肌寒かった。

今日の人波は、およそ七年前のことを思い出させた。タイのバンコクで人波についていき、偶然、チャオプラヤー川沿いのICONSIAMショッピングセンターへたどり着いたときのことだ。

妊娠四か月のお腹を抱え、人波のなかを慎重に進んだ。

新年のカウントダウンの花火が空に咲き、花火のかけらが顔まで飛んでくるほど近かった。

花火が終わった後、帰っていく人波はすさまじかった。私もひたすら長い距離を歩くしかなかった。宿まで残り一キロほどのところで、ようやくトゥクトゥクを拾い、少し運賃を払って、やっと泊まっていた民宿へ戻った。

今日も終わった後は、おそらく歩いて帰るしかないのだろうか?

およそ十年前にも、私は日本で花火大会に行ったことがある。あのときは大雨だった。

どんなに思い出そうとしても、あの花火をどの街で見たのか、どうしても思い出せない。海辺の街だったという、おぼろげな印象だけが残っている。

雨だったので、チケットを買っていた私たちは少し狼狽した。帰りに駐車場まで行って初めて、かなりの人が駐車場に集まって花火を見ていたことに気づいた。

見やすいうえに、雨に濡れる必要もない。本当に頭がいい。

日が暮れてから淀川の河畔から梅田方面を望むと、本当に美しい川の景色が広がっていた。

色とりどりの都会の暮らしは、こういうところが魅力的なのだ。

けれども、人波が密になるほど、かえって孤独を感じた。あちこちに固まりを作って暮らすような生活の形のなかで、一人だけ離れて漂う粒子でいることは、奇妙なことなのだ。

社会的な規範に合っていないからだ。

では、異国ではどこまでできれば、その土地の社会規範に溶け込んだことになるのだろう?

法律を守ること、暗黙のルールを尊重すること?

七時になると、花火は時間どおりに始まった。私が出口近くに「陣取った」せいなのか、打ち上げ場所の河畔から遠く、音楽は聞こえなかった。

低い空で開く花火は一部だけで、大半の花火は少し離れていてもはっきり見えた。日本の花火は、実にさまざまな変化や模様を作り出すのが得意だ。

それでも私は、去年、北海道の洞爺湖で見た二十分間の無料花火の方が、どうもすごかったような気がするのだけれど?

後で大阪の台湾人グループのコメントを読むと、今年はスポンサーが減ったせいで、花火が去年ほどすごくなかったらしい。

とはいえ、花火を見るのはやはり心が弾み、楽しいことだ。

帰りの人波はさらに激しく、現場は一時、歩けないほどの密度になった。それでも全体としては、かなり秩序が保たれていた。

会場は人が多すぎて、通信もつながらなくなった。そんな状況で、後から二人のクラスメートが私のいる場所を見つけたのだから、本当に大したものだった。

その後はクラスメートたちと居酒屋へ行き、居酒屋が閉店した後は、何人かの台湾人クラスメートとクラブへ行った。

本当に久しぶりのクラブだった。中で思いきり楽しみ、中年の活力を見つけたような気がした。

夜明けが近づく頃の道を歩いて家へ帰った。

若い留学生だった頃、私には財力もなければ、自分自身が楽しく暮らせるようにする術もなかった。

ある程度の物質的な基盤を持っていることは、やはりけっこう大切だ。

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