旅の余白

満月の下、旅人が荷物を手に、見知らぬ宿へ続く濡れた道の前で立ち止まっている。両脇には犬と狐がいる、古いタロットカード風の挿絵

第一段階。9.15

寮費を振り込み、出発まであと二週間。信頼にかかるコスト、留学という非合理な選択、そして未知を恐れる人間の心のあいだを行き来しながら、二十年前の、同じように盲目的だった旅を振り返る。

今日は寮の費用も支払った。出発までは、ちょうどあと二週間。学校と寮から入金の確認が届けば、いよいよ第二段階を正式に始められる。

振り込む前に、少しためらった。インターネットで見つけ、一度も会ったことのない留学エージェント。ネット上でしか見たことのない語学学校。そして、やはりネットでしか知らない寮。

接点は、すべて仮想のものだ。典型的な詐欺事件というのは、たいていこうして始まるのではなかったか。

とりわけ今は、詐欺も偽造も、驚くほど低いコストでできてしまう。しかも、お金は私が自分の意思で振り込むのだ。私は少し、衝動的で軽率すぎるのだろうか。

これは、ビジネスでいう「信頼コスト」なのだろう。最低限の信頼が、まだ社会のなかに残っている。そのような場所で暮らせることは、得がたく、尊い。

二十年前にも、私は台湾にいながら、インターネットを通じてドイツの語学学校を自分で探した。

そのとき、あえて知名度の低い、ドイツ東部の町を選んだ。当時はGoogleの口コミが一般的ではなかったし、役に立つ形では、そもそも存在していなかったのかもしれない。学校がよいかどうかは、実際に行った人にしかわからない。けれど、名も知られていない町の語学学校について、経験を聞ける台湾人が都合よく見つかるはずもなかった。

それでも同じような盲目的な信頼に身を任せ、学校と何通かメールを交わしたあと、振込用紙を手に銀行へ行き、学費を支払った。

一学期の学費がいくらだったのか、もう思い出せない。ただ、ゲーテ・インスティトゥートよりは安かったものの、私立の語学学校としては高いほうだったことだけは覚えている。

シェアアパートに空きがなかったため、学校は私をホームステイ先に入れてくれた。家賃は月二百ユーロ。家族と一緒に夕食を取るなら、さらに月五十ユーロだった。

当時の私のドイツ語は、今の日本語よりもさらにひどかった。それでも大きなスーツケースを抱え、飛行機を降りて列車に乗り換え、さらに地域の交通機関を乗り継ぎ、住所を頼りにアパートの呼び鈴を押した。そして、会ったこともないドイツ人家族の家へ足を踏み入れた。あの家族とは、今も連絡を取り合っている。

今回、エージェントが見つけた住まいには食事が付いている。写真で見るかぎり、部屋は広くない。スーツケースを広げる場所さえないほど狭いかもしれない。換算すると週におよそ百九十ユーロで、ドイツの大都市にあるワンルームと、ほとんど変わらない金額だ。

ただし、ドイツのワンルームは広くても、食事は付かない。家具が何一つないことさえある。もっと昔なら、電球もキッチンも自分で用意しなければならなかった。とはいえ、都市を行き来する人が増えたいまでは、家具やキッチン用品の付いた単身者向けアパートも、しだいに一般的になっている。

語学学校の費用も、円の大幅な下落のおかげで、ドイツの私立語学学校とほぼ同じ水準になった。むしろ、わずかに高いかもしれない。

だから、外国で暮らしながら言葉を学ぶことは、初めから安い娯楽などではない。

すでに支払った航空券代まで加えれば、将来の利益につながるかどうかもわからない経験を、お金で買うことになる。実用主義の立場に立てば、外から、あるいは自分の内側から、絶えず問いかけられるのだろう。こんなことをして、いったい何になるのか、と。

折よく昨日、心理学のPodcastで「心が萎えていく状態」について話しているのを聞いた。司会者は、何事にもKPIを求める現代生活のなかで、アジアの伝統的な教育はこう教えてきた、と語っていた。立ち止まることは、努力していないこと。お金にならず、ただ自分を喜ばせるだけのことをすれば、罪悪感を抱きやすくなること。

なんと正確な描写なのだろう。

そこから、成功した企業が陥るジレンマのことも思い出した。大きな成功を収めた企業ほど、すでに知っているもの、すぐに利益をもたらす事業に固執しがちだ。その一方で、いまは何の効果も見えず、将来性も定かではないプロジェクトの開発や模索を怠ってしまう。

いまのドイツの自動車産業をはじめ、多くの業界が、まさにこの罠にはまっている。時代の変化は一夜で起きたように見える。けれど実際には、変化の兆しが長いあいだ見過ごされてきただけなのだ。だから風向きが本当に変わったとき、企業は大きければ大きいほど、身を翻すことが難しくなる。

これは私たちの人生とも、ずいぶんよく似ているのではないだろうか。

人間は未知を恐れ、不確かな選択肢を避ける。ここ数日の見出しも相変わらず、AI業界の有力者たちが開発速度を落とすよう訴え、最前線で働く人々が、AIには人類を滅ぼす高い可能性があると警告している、と伝えている。

その言い方を見たとき、私は笑った。

原子爆弾が生み出されたとき、オッペンハイマーもまた、『バガヴァッド・ギーター』にある「世界の破壊者」という言葉を思い出した。

AIを世界滅亡の犯人に仕立てることは、人間が自分の責任を免れるための言い訳によく似ている。

AIのなかった時代、人類に欠けていたのは、大規模な絶滅を効率よく実行する手段にすぎなかった。それなのに、ひとたび見出しに要約されると、どうしてAIそのものが『ターミネーター』のような存在であるかのように読めてしまうのだろう。

自分の責任を外へ押しつける。それはやはり、いかにも人間らしい行動であり、考え方なのだ。

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