旅の余白

夕暮れの川辺に八つの金の杯が下段五つ、上段三つと並び、赤い外套の旅人が杖を手に杯を離れ、ドイツの町と日本の鳥居の間に続く山道へ向かっている

ひと休み。9.19

四つのアカウントと、途中のままのいくつもの道が同時に尽きたとき、ひと休みしたことで、異国で暮らすということが本当に問うものが見えてきた。

今週はいくつものことを並行して進めた。ClaudeとOpenAI、合わせて四つのアカウントの利用枠を使い切った途端、ふいに方向を見失ったような気がした。

どれも手をつけてはいるのに、きちんと終わったものは一つもない。ずっと道の途中に立ち尽くしているようだった。

今日はようやく、ほんの少しだけ日本語の復習もした。

なぜなのか、日本語に対しては昔から矛盾した感情がある。双子座のように、心の中にいつも二つの声がある。

日本語を学ぶことが楽しく、挑戦に満ちたものだと思えるときもある。反対に、この言葉に苛立ち、まるでやる気が起きないときもある。

日本そのものに対しても、私はずっと同じように引き裂かれた感覚を抱いてきた。

あの国の環境や文化、美意識は好きだ。けれど、仕事で日本人と一緒になった数少ない経験から、日本人と働くことをそれほど好きではない自分もいる。

だからこそ、今回の三か月の日本生活を楽しみにしている。この経験を通して、実際に日本で暮らしたとき、どれくらいの距離を保てば自分がいちばん心地よくいられるのか、もう少しはっきり整理できればと思う。

二十年以上前、まだ外国で暮らしたことのなかったころ、私もよく想像した。一人で外国に住むとは、どんな毎日なのだろう。慣れない外国語で授業を受け、何も聞き取れなかったら、どうすればいいのだろう。

当時のメッセンジャーはMSNとQQだった。その後Skypeが登場すると、留学した先輩たちとそこで話し、外国にいるとは本当はどんな感覚なのかと尋ねた。本当に故郷が恋しいのか。本当に孤独なのか、と。

「感じること」は、具体的な言葉にするのが難しく、言葉だけでは細部まで描ききれない空気のようなものだ。だから当時、先輩たちの話から得られた確かな手がかりは、さほど多くなかった。

自分がドイツで暮らすようになって初めて、ドイツと台湾の生活は何が違うのかという問いに、一つの答えが浮かんだ。最初に思うのは、きっとこうだ。ドイツは静かだ。

自分だけの時間と空間が、驚くほどたくさんあるほど静かだ。

その空寂は、台湾の都市という檻の中で感じていた心の空虚とは、まったく違う。

ドイツの「空」と静けさは、物理的な空間まで本当に空け渡されているかのようだ。

ドイツで過ごす年月が長くなるにつれ、他人の外国生活の話が、なぜそれほど大きな助けにはならないのかも、少しずつ分かってきた。より正確に言うなら、こういうことだ。

役に立つのは、具体的に行動へ移せることだ。何を用意すべきか、暮らしに役立つ知識や小さなこつ、行政手続きをどう進めるか。先に経験した人の話を集めれば、自分が落とし穴にはまる回数を大きく減らせる。

けれど、異国で暮らすことが実際にどんな「感じ」なのかは、水を飲んだ本人にしか、その温かさも冷たさも分からない。

人はそれぞれ性格も、巡り合わせも、置かれた状況も違う。運命が私たち一人ひとりに用意するものも違う。その「感じ」を知りたければ、結局は自分で経験するしかない。

そして、実際に経験したあとで何をよいと思い、何を悪いと思うかも主観にすぎず、絶対的な指標にはならない。

どれも参考のための一例にすぎないのなら、考えすぎる必要はない。行けばいい。

外国で暮らしていると、「統合」という言葉が繰り返し話題に上る。

とりわけ難民危機以降、外から来た人間が、その土地の社会的価値観や暮らし、文化に溶け込めるのかという問いは、ひときわ激しく論じられてきた。

ここ数日、ドイツのAfDの党首や議員による演説をいくつか聴いた。「再移民」と文化的統合についての考え方や政策を語るものだった。

正直に言えば、聴き終えたあと、私はあまり心地よくなかった。同時に、少なくとも私が耳にした言説の中では、イスラム系の共同体が繰り返し焦点に置かれていたことも分かっている。イスラム文化とキリスト教文化は同じ源から生まれながら、その後まったく異なる方向へ発展した。どちらの内部にも、排他的な極端さを帯びた潮流が存在する。

Elon MuskがAfDへの支持を公にしたこと、そしてAfD自身の主張。その間で、私には「ドイツを救う」、文化的な一体性を守る、キリスト教の強い影響を受けたドイツと西洋の伝統を守る、という訴えが繰り返し聞こえた。そこに「統合できない者は再移民させるべきだ」という考えが重なると、私には一つの不穏な論理が立ち上がってくる。西洋の伝統的価値を壊すと判定された人や思想は、すべて排除の範囲に入れられかねないのではないか。

東洋文明の側に生まれた私には、そうした言葉がひどく鋭く響く。

私はキリスト教の思想そのものには同意していない。それでも、キリスト教の影響を受けた土台の上に、少しずつ築かれてきた近代西洋の文化的価値を否定するつもりはない。しかも、その多くは長い宗教改革と思想上の挑戦を経て、ようやく形になったものだ。

明確な宗教を持たない私は、信仰とは個人と神、あるいは霊的な存在との間にあるものだと考えている。教会にも入るし、廟や寺、神社にも足を運ぶ。けれど、唯一の真なる神を信じてはいない。そんな私は、キリスト教文明を基盤とする社会に、うまく溶け込んだ人間と言えるのだろうか。

私は暮らす国の法律を守っている。文化の違う目から見れば議論の余地がある条文もあり、私自身が必ずしも賛同していなくても、それには従う。それでも不安は残る。もしある日、ドイツ社会がまず、最も頻繁に目の敵とされるイスラム系の集団を排除したなら、次に「相容れない」と判断されるのは、別の集団ではないのだろうか。

日本社会もまた、閉鎖的で排他的だとしばしば言われる。規則は守るけれど、その中へ溶け込むつもりはない外国人を、彼らはどう見るのだろう。

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