日本人が婉曲的な民族であることは、ドイツ人が率直な民族であることと同じように、世界中で公認されている。
婉曲な表現には、暗黙の了解と共通認識が欠かせない。同じ場で暮らしておらず、記憶や想像を共有してもいなければ、暗黙の了解も共通認識も何もないところから生まれはしない。
だから、外国人は日本人の「空気」が読めず、日本人は外国人が集団の秩序を乱すと感じる。
そこには、一種の矛盾した現象と感覚が生まれるのかもしれない。
集団の中では、個人性がほとんど存在しなくなるまで消されてしまう、と私たちは言う。
ところが、日本社会全体の排外的な空気に向き合うとき、あるいは一人の日本人と接するとき、多くの外国人は、強烈な「他・我」の意識をたびたび感じるとも言う。
もしかすると、一人ひとりの日本人が、自分を集団の一部だと捉えることにあまりにも慣れているために、集団の意思を自分自身の意思として受け取り、その結果、個人として頑なで、ほとんど変えようがないように見えるのではないだろうか。
遠回しで、空気を読むことを求める表現に慣れているからこそ、外国人である私には、日本人の本心を本当に推し量れないことがよくある。
二つ、例を挙げよう。
以前にも書いたが、私は短期の訪問と稽古を受け入れている居合道の道場を見つけた。師範は最初の返信で、入門料が五千円、その後の月々の稽古代も五千円だと伝えてきた。
私はいつものように礼を述べると同時に、その費用は道場を訪ねる当日、現金で支払わなければならないのかと尋ねた。
もちろん、外国人には銀行振込を利用するという選択肢はない。けれど、私がそう尋ねたのは、普段から現金を持ち歩かないからでもあり、また、道場への最初の訪問はたいてい「見学」に当たると記憶していた、あるいは、そう思い込んでいたからでもある。
だからこそ、慎重を期し、自分で勝手に結論を決めつけないために、私は質問した。
師範からの返信は、日時と場所を確認しただけで、費用については一言も触れていなかった。
私は黙って推測するしかなかった。これはつまり、やはりお金を用意しておくべきだという意味なのだろうか。
二つ目の例も、以前に触れたことがある。私は日本の業者が提供する特定のサービスを探しており、問い合わせメールの冒頭で、打ち合わせには英語を使う必要があると明記していた。そのため、何社かから次々と断りのメールが届いた。
最初に「英語で問題ない」と返事をくれた会社では、返信してきた社長本人が、本当に本人だったならば、アメリカに留学し、シリコンバレーで起業した経験を持っていた。双方の協力意思とその形をよりよく確かめるため、私はまず一度、オンライン会議ができないかと尋ねた。
社長は返信で、オンライン会議は日本語で行うのかと尋ねてきた。
私は「いいえ、英語です」と答えた。
すると社長はまた返信した。「オンライン会議を英語で行うのは無理です。英語なら、メールで文書のやり取りをすればいいでしょう」
私はこう返した。「それでしたら、代わりに対面でお会いするのはいかがでしょうか。こちらでAIのリアルタイム翻訳機能を使用してもよろしいでしょうか。それとも、通訳を連れて行くことを御社は勧めますか」
社長からの返信は、またも日時と場所を確認しただけだった。AIのリアルタイム翻訳を使ってよいのか、通訳を連れて行くべきなのかについては、まったく触れていなかった。
私はまたしても困惑した。
いったい相手は何を意味しているのだろう。最初は英語を使えると言っていたのに、実際に話す必要が生じると、今度は無理だと言う。
もしかすると、私は最初から相手を誤解していたのだろうか。相手の言う「英語を使える」とは、英語では書面でしかやり取りできないという意味だったのか。
私はもう、何もかも分からなくなってしまった。
オンラインのメールでは、相手の表情さえ見えない。これでは外国人が日本文化を解読するのは、なおさら難しい。
理解することも、伝え合うことも、互いの働きかけがあってこそ成り立つ。いつか私は、その暗号を解く鍵を、もっと確かに手にできればと思う。

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