「考えてばかりで、ほとんど何もしない」。そんな状態に覚えのある人は多いだろうし、私自身がまさに生きた見本だ。夢が実現しないのは、それが大きすぎるからでも、遠すぎるからでもなく、足もとの一歩をいつまでも踏み出せないからだ。最初の一歩を踏み出せないのは、ときに、その旅にいったいどんな意味があるのかわからないからで、少なくとも私には、そういうことがよくある。そしてときには、半分まで行くどころか、まだそこにも届かないうちに投げ出したくなる。「完璧にできない」からだ。
黒翼宇宙の物語を書きたいと、私は何年も思い続けてきた。それでも、書いたところで何の意味があるのかわからなかった。自分がJ・K・ローリングや、ほかの商業的大作家になる姿を夢想したところで、まるで現実味はない。書くことは自分を楽しませるためのものなのか、それとも生計を立てるためのものなのか。少なくともAIが現れる以前、人はいかに生きるべきかという問いは、形而上学的な哲学の問題であるだけでなく、物理的に生き延びるための問題でもあった。ある意味で私は、あの狂人イーロン・マスクが人類に描いてみせる未来を楽しみにしている。人間が労働としての仕事から解放され、自己実現の追求に力を注げる未来を。
けれど、もしかすると私たちは、多くのことを始めてもいないうちから、満足のゆかない結末を自分で想定し、それどころか先に見通したつもりになっているのかもしれない。損失を避けたいのなら、もうやめておこう。何もしなければ、失望することも傷つくこともない。ときどき私は、この論理を、いまなお膠着するロシア・ウクライナ戦争に重ねて考える。もしウクライナが力尽きて敗れ、ロシアが全面的な勝利を収めるのだとしたら、それは戦争が始まった当時、ゼレンスキーが国を捨てて逃げ、残酷な死傷を避けるべきだったということになるのだろうか。かつてウィーン美術アカデミーはヒトラーを合格させるべきだったのか。そうすればヨーロッパには平凡な画家が一人増え、総統が一人減ったのだろうか。歴史に「もし」はなく、人生に「初めからわかっていたなら」はない。おそらく、こうした思索があったからこそ、黒翼宇宙は結末から語り始める物語になった。どれほど強盛な王朝も、いつかは滅びる。傷に満ちたひとつの愛も、いつかは失われる。
虚無主義に抗うために、成否に焦点を当ててはならない。見つめるべきなのは、そのあいだに何をしたのか、どんな試練をくぐり、どんな選択をしたのかということだ。AIが、より機敏で、より正しく、より完璧に見える答えをいくらでも生成できる時代であっても、学ぶのは、よりよく考えられるようになるためであり、よりよい点数を取るためだけではない。
9.12、語学学校のオンラインテストが締め切られる数時間前、私は慌ててテストを終えた。リスニングはほとんど聞き取れなかった。漢字がなく、すべて仮名で書かれた文章は、読むのが遅く、ひどく骨が折れた。習ったはずの文法も思い出せず、胸にあったのは羞恥ばかりだった。
それでも私は自分に言った。進め。進め、ゆっくりと、前へ。

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